明けましておめでとうございます。今年も雲西寺をよろしくお願いいたします。
「小さい頃、誰かと約束をすると「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます」なんて言ったものであります。
実は、私たちはこの命の縁が終わったときに必ず「お浄土」という阿弥陀如来様の世界に生まれさせていただくことが約束されているのです。
十劫という果てしない昔に阿弥陀という仏様が、「私たちのような人間をすべてお浄土に生まれさせ、仏と仕上げることができなければ、私は仏にならない」というお誓いを立てられているのです。このことが『仏説無量寿経』という経典に書かれています。
そのお誓いを信じて阿弥陀さまにお任せするのが浄土真宗のみ教えの根幹であります。
私たちはすでに「ゆびきりげんまん」と約束された存在だったのですね。
平成30年3月25日、雲西寺第19世住職継職奉告法要が勤まりました。お稚児様が100人近く歩き、カラオケ日本一の元永航太さんの歌の披露やNUM-NUM-GIRLSのパフォーマンスもありました。
多くの皆様方のお陰で新住職が盛大に継職できましたこと改めてお礼申し上げます。
また午前に行われた春彼岸法要では、雲西寺第17代住職である紅楳英顕司教のご法話を頂き、有難いご縁でございました。
日本初の仏教系女子高校生グループ NUM-NUM GIRLSのプロデュ―サーが当寺現住職で東九州龍谷高校教諭でもあります、紅楳 聖(聖英)です。雲西寺にも何度か彼女たちに来てもらって盛り上げてもらっています。
皆さんの応援宜しくお願い致します。
全五曲の曲を引っ提げて全国のお寺を回って活動中です。
今年は、本山西本願寺御影堂でのパフォーマンスもさせていただきました!
ナムナムガールズに興味のある御寺坊の方々、御門徒の皆様方、多くの方々に歌と踊りをぜひ見てほしいです。
傘は、人を雨から守るものです。
私たち人間は、自分の子供であるとか、そういった人たちに対しては、他人の苦しみ悲しみを我が苦しみの様に思えないこともありません。しかし、それは所詮「辛かろう」「痛かろう」というものにすぎず、本当に我が痛みとしているわけではありません。ましてや自分にあまり関係が無い人々に対して、例えば、イラクで紛争に巻き込まれた少女の痛みを自分の痛みととらえられるでしょうか。
仏さまのお慈悲の御心とは、あなたの苦しみ・悲しみを「苦しい」「悲しい」と、我が苦しみととらえ共に感じ、純粋にあなたの、そしてすべての生きとし生ける命の幸せを願う心です。
そんなお慈悲の傘のない私は、阿弥陀如来のお慈悲を正しい生き方と仰ぎ、傘のない自らの愚かさを振り返りながら、お念仏申して生きていきたい、そんな思いと井上陽水さんの「傘がない」という歌詞から、この言葉が生まれました。
新年あけましておめでとうございます。今年も雲西寺を宜しくお願い致します。
さて、年が明けてまるで身も心も新しくなったような気分になるときがあります。しかし、実際に自分の新年の言動を振り返ってみると、またこんなことを言ってしまった。また自分可愛さにこんなことをしてしまったと反省することばかりです。
私たちは、常に煩悩と呼ばれる自分中心の考え方にとらわれています。
今月はそんな気づかずにとらわれている自分勝手な思い、自分中心主義という「鬼」を新年になっても「まだ」「ひっぱっている」そんな思いで言葉を書かせて頂きました。
しかし、たとえ鬼がこの身の中にいたとしても必ず阿弥陀さまが見捨てず南無阿弥陀仏となって必ず私たちを仏と仕上げてくださる。
そんな阿弥陀さまのお慈悲に感謝申しながら、常日頃の自分を振り返りたいものです。
3月25日 多くの皆様方のおかげで第19世住職継職奉告法要が無事勤まりました。江戸時代から447年続く雲西寺の法のともしびが新住職へと継承されました。これも御門徒の皆様方をはじめ多くの方々のお陰だと有難く感じております。
前住職は様々な時代の変化の中で、浄土真宗の教えをより多くの人々に伝えたい、そんな一心を貫き通したと思っています。台風で損傷した本堂の屋根を改修し、墓地と二つの納骨堂を整備しました。本来、本耶馬渓町・耶馬溪町・院内町だけにしか御門徒はいませんでしたが、今では中津市内にもご門徒が増えました。この結果は、まさに布教で他のお寺にも出向しながら趣味の喫茶店通いなど様々な人脈を使ってご門徒へのつながりを模索してきた前住職の努力の結果だろうと思うのであります。そんな前住職であるからこそ、これからのさらなる殺伐とした現代社会に立ち向かう新住職に向かって「負けないで」という言葉を掛けたいのではないでしょうか。
雲西寺の桜の木も百年ほどお寺を見守ってきました。40年の住職としての人生の中で多くの人との出会い、阿弥陀さまと遇わせていただいたこと、住職として全うできた一番大きな理由だと思います。どんな辛いときも「一人じゃあない。阿弥陀さまは必ずこの私を見守ってくださる、命の縁尽きるときには必ず救ってくださる」そう思って乗り切ってきたのではないかなと思うのであります。
私たちの娑婆世界は、悩み苦しみにあふれた世界です。私たちが自分にとらわれた心、自分が一番かわいい、という煩悩から離れられない限り、私たちの悩み苦しみは尽きることがありません。
しかし、行信教校という大阪の僧侶の学校の大先生であります、梯 実圓(かけはし じつえん)和上が仰るように、阿弥陀如来の大きなお慈悲の中で悩みながら苦しみながらジタバタすることができるのが浄土真宗であります。どんなに苦しくても悩みが多くても、その原因が私たちの煩悩にあると教えてくださるのが仏教の教えです。阿弥陀さまの光明に照らされ、悩みの原因を知ることで私たちは我が身を振り返り自らの恥ずかしい有様に気づくのであります。
そして、そんな煩悩にとらわれた私達であるからこそ救わんとお立ち上がりくださった阿弥陀如来の大悲のお心を感じることで、愚痴や怒りやねたみが感謝のお念仏に自然に変わっていく。これこそ、この厳しい現代社会における心の救いなのではないかなと思う今日この頃であります。
私たちは普段自分の煩悩にとらわれた姿に気づかずに生きています。言い換えれば善の鎧を着て生きているとでも言いましょうか。FACEBOOKに自らの悪い部分や行為について書く人はほとんどいません。自分がいいことをしている、自分が頑張っている、そんな記事がほとんどではないでしょうか。他人によく見られたい、自分が一番かわいい、このような思いは、どうしようもなく出てくるものであります。
そんな私たちの姿をはるか昔に見抜かれたのが、阿弥陀という仏様であります。私たちが到底自らの力を頼りにして修行したとしても仏になることができない、阿弥陀さまはそんな私たちを何とかして仏にして苦しみを取り除き幸せにしたいと願われたのであります。親鸞聖人様も「罪障功徳の体となる こほりとみずのごとくにて こほりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」という御和讃(七五調の御歌)を遺されています。私たちの罪業が深かったからこそ阿弥陀さまの起こされた私たちを助けたいという御慈悲の御心も大きく、私たちを助けるために阿弥陀さまが積まれた修行の功徳も大きいのであります。
阿弥陀さまはとっくの昔に私たちの姿を見抜かれていたのであります。だから「ばれているぜ」ということなのです。
除夜の鐘をゴーンと撞くと、今年はどうしても世間を騒がせたカルロス=ゴーン氏を思い出さずにはいられません。その報酬額の高さに改めて私たちは驚愕させられました。「あんなにお金もらっているのにまだお金が欲しいのか?」と信じられない気持ちになった人もいるでしょう。
しかし、自分を振り返ってみたときにいかがでしょうか?お仕事されている方は今の現状の給料やボーナスに満足されているでしょうか?愚痴をこぼしたことはないでしょうか?夫婦関係においても同じです。旦那さんのこういう所を直してほしいと思っていたとして、それが直ったとしても、また他の気になる所を見つけて不満に思うのではないですか?
息子の成績が上がったら、今度はお行儀よくしてほしいと思うのではないですか?
人間には百八の煩悩があるとされていますが、その中でも中心的なものを浄土真宗をお開きになった親鸞聖人様は「三毒の煩悩」とお示し下さいました。「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴(ぐち)」といいます。このうち最初の「貪欲」の心とはむさぼりの心であります。あれがほしい、これがほしい、こうなってほしい、と自分の都合がいい方向へと求め続ける人間の心であります。もちろん実際の娑婆世界の生活ではこの心によって成績が上がったり会社での利益が上がったりいい方向にも働きますが、一方で悪い方向に働くとストーカーや離婚など悪い結果を導きます。
良くも悪くも人間は求め続ける。満足しない。信じられないようだけれども「百億あったら二百億ほしい」のであります。
約2500年前にインドにお生まれになったお釈迦様(本名 ガウタマ=シッダールタ)は、若くしてこの世において避けられない苦しみに出会います。生・老・病・死の四つの苦を「四苦」と呼びます。老いる苦しみ。病気になる苦しみ。死んでいかねばならない苦しみ。お釈迦様はこれらの苦しみの原因を自分への執着(煩悩)であると悟られたのであります。自分への執着から逃れられない生を生きていくしかない苦しみが最初の「生」の苦しみなのです。
皆さんは、同性の親兄弟が他人に褒められているときに手放しで心から喜び続けられますか?私は、表には決して出しませんが、心の奥底でどこか彼らのだめなところを探したり、自分を褒めて欲しいと思ったりする心があることに気づいてしまいます。
気づけば心のどこかに「俺がおれ我」。我に執着している自分がいるものです。しかし、それはよくないものだとわかっているから、ひた隠しにして生きています。善の鎧をまとって生きているなあと、たまにお恥ずかしい思いがいたします。しかし、そのたびにそのような私たちのために届けて下さる阿弥陀様のお慈悲の深さに感動するのであります。
節分では「鬼は外、福は内」といって鬼に豆を投げますね。幼いこども達が豆を投げている姿は大変ほほえましいものです。しかし、実は、このフレーズは元々どういう意味かと申しますと、「不幸が自分の家以外のよその家に行って、幸福のみが自分の家に来て欲しい」という意味なのです。何も知らずに投げていた人はびっくりするかもしれません。
よその家に不幸が行って欲しいと思って豆を投げていた人はいないかもしれません。しかし、人間の中に根源的に自分を一番に優先する心が存在するのです。これを煩悩というのであります。クリストファー=ノーランという有名な映画監督の代表作に『ダークナイト』というバットマンの映画があります。この中で、ジョーカーという悪役が、二つの船に両方とも爆弾を仕掛けて乗客達に呼びかけます。
「助けて欲しいと言ったら、もう一つの船を爆破する。何も言わなければ両方爆破する。」
映画の中では、乗客達は両方何も言わず、ジョーカーが思い通りにならずに憤慨するのですが、果たして実際はどうでしょうか?そんなに理性を保てる乗客ばかりでしょうか?助けてと言おうとする人たちもいて船内はパニックになるのではないでしょうか?そんな人間の奥底を見抜いてジョーカーは呼びかけたのではないかと思うのであります。
だから「鬼ハ内二イル」。しかし、そんな私たちだからこそ阿弥陀如来という仏様は救わずにはおれなかったのです。その広大なお慈悲を仰ぎ、いいことが一つでもできたらお陰様でいいことができたと感謝してお念仏申しながら生きていきたいですね。
煩悩は、108あると言われています。「煩」は体を煩わせるもの、「悩」はりっしんべんが心を表すとおり心を煩わせるものを意味します。しかし、煩悩って何ですか?と問われると、欲望とごっちゃにしている方が多いように思います。厳密に言いますと、欲望というのは煩悩というものの氷山の一角に過ぎません。
煩悩というのは、簡単に言えば「自分が一番かわいい」という思いから生ずる自分中心の考え方と考えたら良いでしょう。掲示板の左端に「アレガホシイ」と書いてあるのは、「求不得苦」という求めても得られない苦しみのことです。お釈迦様が仰った四苦八苦という人間の苦しみの一つになります。
阿弥陀さまは、「アレガホシイ」ばかりの私たちを「ソノママコイコイ」とその姿のまま救うとお呼びかけ下さっているのです。
2月といえば、バレンタインデーですね。意中の男の子に本命チョコをあげる人もいるかもしれません。では、阿弥陀さまの本命は誰なのでしょうか?それは、誰か一人ではありません。阿弥陀さまが救わなければ地獄しか行く道がない私たちなのです。
そして、阿弥陀さまは、私たち全ての命を救うために「南無阿弥陀仏」というお念仏を渡してくれているのです。そのお念仏に阿弥陀さまの果てしない御修行によって積んだお徳を全てお念仏にこめて・・・。だから、「本命は俺」なのであります。